以前書いたようなブログをまた書いてほしいとの少数意見がございましたので、今回は松江市出身の「籠手田 淑子 こてだ よしこ」女史について書きたいと思います。

 

籠手田 淑子(よしこ)の父親は、明治時代の日本の教育界を心配し、文部大臣に建白書を送った初代 島根県知事 籠手田 安定(やすさだ)の娘であります。

 

島根県民の教育のために、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を松江に招聘したのも淑子の父、籠手田知事でありました。

 

その娘である淑子は父の薫陶を受け、明治32年に父が死去すると、翌年には朝鮮半島に渡り、教育が遅れていた朝鮮で私立学校を立ち上げました。

 

当時の大韓帝国は、經國大典という厳しい身分制度があり、普通の庶民は教育など受けれませんでした。教育の遅れていた朝鮮の力になりたい淑子は、学校運営の資金集めに奔走します。

 

しかし、大韓帝国での日本人による教育活動は、思うように資金も集まらず、淑子は父の友人である島根県美保関町の「美保神社」の宮司である横山氏に相談します。

 

この横山氏の呼びかけに、島根県の篤志家をはじめ、全国から資金が集まり、何とか持ち堪えることが出来ました。

 

当時の政情不安な中での活動は、危険で困難を極めましたが、次第に人びとの評価が高まり、生徒も250名を超えるようになり、明治37年の春には第1期卒業生を送り出すことができました。

 

当時、朝鮮の女子は、男尊女卑の価値観や家長に従う弱い立場でしたが、女子教育の必要性を感じた淑子は、女子部を設立し女子の教育向上に努め、朝鮮の女子たちからも支持を得ました。

 

更に、師範学校を作って教師をたくさん育てた結果、大韓帝国の中に3百校しかなかった学校は3千校を超え、韓国の教育水準は飛躍的に伸びました。

 

そして明治43年には、大韓帝国と日本が併合する時の約束として、翌年の明治44年に「朝鮮教育令」を公布し、日本は朝鮮を日本の教育水準にまで高める政策を実施しました。

 

そして日本政府は帝国大学を作る時、大阪や名古屋に作るよりも先に、現在のソウルに京城帝国大学を作っています。

 

今に繋がる韓国発展の礎が、籠手田 淑子により築かれているのであります。

 

今回も最後までお読み頂き、ありがとうございました。