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マスターのブログ Blog 時事雑感

勉強したい人とは

 

勝安芳(かつやすよし)は西洋の良い兵書を読みたいと思い、色々探していましたが中々手に入りませんでした。

 

ある日、本屋で、ふと、オランダからの新書を見つけましたが、目が飛び出るほど高くて買えません。そこで、親戚中をまわり借金してお金を集め、喜び勇んで本屋へ買いに行くと、すでに売り切れたあとでした。

 

しかし、どうしても諦めきれず、本屋さんに買った人を教えてもらい、その人を訪ねて「その本をどうかお譲りください」と頼みこみました。

 

持ち主は「売ることも貸すことも、まかりなりませぬ」と一歩も引きません。

 

安芳はしばらく考えて「それでは、夜にあなたが寝ている間、この本をノートに写させて下さい」とお願いし、しぶしぶ許しをもらいました。

 

安芳はそれから毎晩、往復14キロの道のりを、雨の日も嵐の夜も、約束の時間に遅れることなく半年かけて、とうとう8冊の本を写し終えました。

 

その時、本の内容で意味のわからない箇所を持ち主に尋ねると、

 

「あなたは毎晩、熱心に勉強され感心しました。お恥ずかしいことに、私がこの本を持っていても宝の持ち腐れです。あなたに差し上げます」と言いました。

 

安芳は「私は写させて頂いただけで感謝しております。このような高価な本は受け取れません」と断りましたが、どうしてもと無理にすすめられ、とうとう受け取りました。

 

この安芳が後に、江戸城の無血開城を成し遂げる、勝海舟なのであります。

 

マスターはこのエピソードを聞いて、もしかしたら、他に同じ時に安芳よりも、もっと勉強し才能に恵まれた人が居たかもしれません。

 

しかしなぜ、勝安芳のほうが歴史に名を残したのか?考えだしたら夜も眠れなくなるので、とりあえず、地下鉄はどこから入ったのかを考えたいと思います。

 

ありがとうございました。

 

 

沈思黙考

海軍といえばハンモックですね

 

先日の休日、天気が良く風も心地よかったので、庭にハンモックを吊るして読書でもしようと思いセッティングしたところ、子供たちが押しかけ、押し合いへし合いした挙句、奪い取られてしまいました。

 

 

仕方なく、マスターは指をくわえながらハンモックが空く隙を見て、素早く奪い取ろうとしましたが、野生に帰った子供たちはキャーキャー言いながらぶら下がっていました。

 

 

野性に戻る子供たちを見て、人間が猿から進化した事実を深く納得したマスターでありました。

 

さあ君たち、おやつはバナナにしよう!

 

銀(しろがね)も  こがねも玉も  何せむに  勝れる宝  子にしかめやも・・・山上憶良 やまのうえのおくら

 

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九州の古代史

 

 

 

 

あまりにもヒマなので、関裕二 著「磐井の乱の謎」と、超有名な古田武彦 著「失われた九州王朝」を購入し、早速読んでおります。

 

日本という国の形が始めから、キッチリ出来たわけでなく、徐々に形成されてゆく過程が面白いです。古代ローマも初めは数キロ四方しかなかったと、塩野七生さんが「ローマ人の物語」で書いていらっしゃいました。

 

 

このコロナ禍の中、沢山のものを失うだけでなく、何か一つでも学んで得たいと思います。

 

しかしながら、この本の感想などはブログにアップすることは致しませんので、ご安心ください。

 

 

 

 

上杉鷹山 (うえすぎ ようざん) 後編

米沢市

 

鷹山は儒学者の細井平洲(ほそい  へいしゅう)に師事し、平洲をたいそう尊敬しておりましたので、平洲の実学をもって米沢を良くしたいと考えていました。
            平洲は「民の幸せのために藩主はある。民は藩の持ち物ではない。藩主は民の父母である」と説きました。
                江戸から平洲を米沢藩に招いた時には、1里半も迎えに出て、平洲の到着を待ちました。平洲が到着し歩き出すと、平洲の後ろを歩き、石につまずかないか注意して、決して前に出ることはありませんでした。
               殿様が城を出てお客さんを迎えに行くなど、当時の身分制度では考えられない行為であり、身分を超えた師弟愛として江戸中に知れ渡りました。
               とある田舎の田園地帯での出来事でありますが、
              ある日、老婆が稲刈りをしていると雨が降りそうになったので、稲穂が濡れる前に急いで取り込もうとしていました。そこへ2人のお侍さんが通りかかり手伝ってくれました。
                2人のお侍さんに対して、手伝いのお礼にお餅を持って行くので、どこに行けばよいか老婆が尋ねました。
  お侍さんは「業者が出入りする通用門に来てください」と言うので、後日、言われた通り通用門に餅を持って行きました。
すると、そこで待っていたのは藩主である上杉鷹山その人でありました。
               老婆は手伝ってくれたのが殿様だと知り、腰を抜かして驚きました。
鷹山は老婆が働き者である事に感謝し、銀5枚を褒美に渡し、餅を受け取りました。
             お侍さん、百姓、町人が一生懸命に働き米沢藩の財政が良くなってくると、人々の心に余裕ができ「人を信じウソをつかない」気風が広がっていきました。
その米沢の気風が有名になった一つに「棒くいの商い」というものがあります。
               米沢では道の端に棒くいが何本も立ててあり、くいの先からヒモで吊るしたカゴがあり、その中には、おにぎり、わらじ、野菜などが入れてあります。商品を買った人はお金をカゴの中に入れておくのです。現在でも田舎に行くとポツンとある無人市場の原形であります。
             格言・・・受け継ぎて   国のつかさの身となれば   忘るまじきは  民の父母

 

 

上杉鷹山 (うえすぎ ようざん) 前編

上杉鷹山

前回のブログが意外にも好評でしたので、今回は知る人ぞ知る江戸期の名君、「上杉鷹山  うえすぎ  ようざん」にスポットライトを当ててみたいと思います。
                                                        アメリカの第35代大統領ジョン F ケネディが、日本人記者団との非公式な記者会見で、「日本人の中で尊敬する人はいますか?」と聞かれ、ケネディは「ウエスギ  ヨウザン」と答えました。その時、日本人記者団が「だれ?それ」となったのは有名な話であります。
                                                         その後、2014年9月27日、ケネディ大統領の長女であり、当時、駐日大使であったキャロライン・ケネディは山形県米沢市を訪れ、「私の父は、公的利益のために、その身をいとわなかった18世紀の東北大名、上杉鷹山を称賛していました」と感慨深げにスピーチしました。
                                                       この上杉鷹山(ようざん)は多額の借金でつぶれかかっていた米沢藩を、苦労して再建させた人物であります。
                                                      鷹山(ようざん)は高鍋藩(宮崎県)に生まれ、祖母が上杉家の出身だったため10才の時に米沢藩8代藩主、上杉定重の養子になりました。
                                                    上杉家は関ヶ原の合戦で敗れて以降、石高を120万石から15万石に減免されましたが、家臣の数を減らすことができず、120万石の時から変わらない6千人の家臣団を有しておりました。
                                               名門である上杉家は華美な生活を改めることが出来ず、財政は破たん寸前で、現在の貨幣に換算すると160億円を超える借金を抱えていました。その上、領内では凶作が続き農民は年貢と飢餓に苦しんでいました。
                                                    現在と違い、当時は中央から交付金などなく、中央に年貢を納めながら、藩の財政を独自で立て直さなければならなかったのです。
まず鷹山は倹約を家臣団に伝えましたが、「殿は小藩の出身なので大藩の振る舞いはご存知ない」と馬鹿にして従おうとしません。
やはり、いつの時代も改革に猛烈に反対する人たちはいるものです。
                                                    そこで鷹山は領内に倹約の指示を出し、自分の生活費を7割カットし、浮いたお金でうるしの木や桑の木、こうぞ(和紙の原料木)の苗を買い、やる気のある農民に配りました。そうして自分の支持者を増やしていったのです。
                                                    米沢は寒冷な気候であるため、稲作だけに頼らず、うるしからローソクを作り、桑の葉でカイコを飼い、こうぞから和紙を作り、紅花を植えて染料や油を取ってそれを売り、藩の財政の一助にしました。
                                                    また、鷹山が住んでいる屋敷の庭をすべて畑にし、毎日自分で耕し自給自足、粗末な食事を心がけました。そして家族が住んでいる部屋を、カイコを飼う部屋にし、まゆから糸を取り、絹やつむぎを妻子に織らせました。
更に、領内の女子たちに職業を授けるため、越後から、はたおり職人を招き、その方法を教えさせました。これが世に名高い「米沢織り」の始まりであります。
荒れ地を開いて農業を営もうとする者には、農具や種もみを与え、税金を3年間免除しました。また、各地で馬を飼わせ、農業の手助けとなるようにしました。
鷹山自身も遠山村の荒れ地を開墾していきました。その姿を見た藩士たちは感動し、最上級に位置する侍組の人たちもクワを持って働くようになりました。2年間で約18万坪の荒れ地が開墾され、だんだん米の収穫が増えてゆきました。
                                                    そして米沢の将来を考え、江戸から儒学者である細井平洲(ほそい へいしゅう)を招き、身分の差が無く、やる気のある者なら誰でも学べる学校を作りました。
                                              鷹山は死ぬ間際まで改革を続け、72歳で亡くなりましたが、その翌年に米沢藩はすべての借金を返済することができました。
                                             格言・・・なせば成る    なさねば成らぬ何事も
  成らぬは人の   なさぬなりけり

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